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2010/05/26

「留保のない生の肯定」の前に、「留保のない『人間』の肯定」を

最近話題の「まおゆう」について。

まあ単に経済学っぽいファンタジー小説と言うならこっちのほうが面白い(ストーリーそのままで文体変えたらおっさん向けの仮想戦記として通用するんじゃないか)と思うんだが。

それはともかく、「まおゆう」に対するあまりにもひどい評論を見かけたので、コメントするのを抑えられなかった。

農奴の奴隷状態から逃げ出してきた二人のかわいそうな少女に、魔王の親友であるメイド長は「こんな虫けら、早く村に突き出しましょう!」と。
これは、正しい態度です。それは、2点から。一つは、魔王と勇者は、こうした悲惨なことがなくなるように「マクロ」のために立ち上がったわけであって、個々のミクロに関わっていては大局を見失う可能性が高く、また最後まで彼女たちを救うことができないのならば、むやみに手助けすべきではないのです。最後まで面倒を見れないのに捨て猫を拾うなと同じことです。
またいきなり「虫けら!」と吐き捨てるのは、強い倫理的な怒りがメイド長の中にはあります。どんなに悲惨であっても「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです。それを外部から助けることは、その奴隷の「人間としての動機と尊厳」を傷つけるだけであって、言い換えれば「ただ助けてくれ!」などというもの「実際具体的に戦う方法を見いだせないもの」は、虫けら=奴隷なのであって、「助けてくれ」などという他者に安全保障を委ねるような行為を叫ぶ時点で、そいつはどこまで行っても救う価値すらもない虫けらなんです!ということを、はっきり示しているんです。

姉「わたしたちを、ニンゲンにしてください。わたしは、あなたがうんめい、だと――おもいます」

これが、すべての出発点にして答えです。「人間であるというのはどういうことを指すのか?」ということを、メイド姉が心に刻みつけたシーンで、彼女はこのことを悩み続け、ある回答に至るのです。この設問自体が正しいので、答えは簡単です。「人間は、人間でなければならない」につきます。この意味するところは深いです。「人間は人間たろうとしなければ、人間にならない」という意味でもあるからです。
ちなみに、会話文の中に、全く漢字がないのは、アルジャーノンに花束をを思い出させますが、この姉妹が、まったく教育を受けていないことを暗喩しています。

これに対し、私は以下のようなコメントをした。

「アルジャーノンに花束を」に言及したうえでなお、「人間であろうとしないものは、人間足りえない」と言ってしまうのはあまりにひどいのでは。
メイド姉は幸いにも、教育を受ければ「世界を背負う苦しみを引き受けるという覚悟を持つ」に足る能 力を持っていました。また、チャーリィ・ゴードンは、『手術』によって身に付けた知能、すなわち「人間たろうとする能力」を失っても、最後まで「人間たろ うとする意志」を持ち続けていました。では、『手術』がまだ開発されていない現在の現実社会に生きる、「人間たろうとする」意志も能力も持ちえない 『チャーリィ・ゴードン』は、「救う価値のない虫けら」なのでしょうか?
もちろん、「虫けら」にしかなれない者を切り捨てることによってしか、 「中世」から「近代」へ脱皮することはできなかったというのは正しいのかもしれません。しかし、血統や財産、性別や皮膚の色、思想信条や性的嗜好、あるい は指の数や知能指数を「人間の条件」にしてはいけない、切り捨てられるべき「虫けら」に生まれついたヒトなど一人もいないという概念によって、われわれは 「近代」から「現代」に移行したのではないでしょうか?
もし、彼らを再び切り捨てることによってしか「現代」から次の時代へ進歩することができな いのだとしたら、それは単なる「近代」への退行でしかないのではないでしょうか?

だが、これに対する回答は返ってくることなく、そのままこのようなエントリが上げられた。

ところが、近代社会は、「個人が自分の意思で選択を決める」という再帰的な社会です。自分の役割の不満や問題点は、「すべて自分の責任」という身も蓋もない強烈な自立を求められる社会なんです。この社会では「母なるもの(=共同体による無自覚な役割のコミット)」を拒否せよ!という強い圧力が働きます。まず「人間である!」ということは、「人間たろうと独立の意思(=自分で自分の行為を判断する)」を持つモノであるという、前提があるからです。「近代的個」ってやつですね。自立した自己責任による主体者でなければ、「それは人間ではない」という前提が、我々の住む近代社会には存在しています。中世は、この「近代的な自我」の独立が、封建社会からの、集団による個の圧政からの解放という物語があったので、とても美しく描けます。
しかし、現代では、このあたりの話は、非常にアイロニカルなモノになっているので、難しいですよね。なぜならば、この奴隷状態である人間性の解放!(=ルネサンスの輝き!!)の物語は、その後、「人間とは?」という定義を固めていくことにより「優生学」の思想にたどり着き、「正しい人間」以外を排除するという国民国家の差別幻想システムが完成するに至るからです。まぁわかりやすいのは、ドイツのヒトラーのナチズムの思想ですね。思想史をきちっと勉強すると、ナチズムの思想は、これまでの西洋の「人間の実存の回復」をベースに、かなりゆがんでいるけれども、思想的には連続性があることがわかります。そう思うと、なかなか難しいです。自然権の確立が、ホロコーストを生むわけですから。

これに対し、Kagami氏が以下のような批判エントリを上げた。

これは歴史的事実とは完全に逆のことを言っている嘘の文章であり、酷すぎます。
「自然権(=普遍的人権)の確立が、ホロコーストを生むわけですから。」これはあまりにひどすぎますよ。ちゃんとつっこんでください…。なんで誰も何も言わないの…。なんで僕だけしか…。みんな、人権なんてどうでもいいと思っているのでしょうか…。涙がでてきます…。

これももっともな話だ。「人権」とは、万人が生まれながらにして平等の権利を持ち、その権利は何があろうと奪われてはならないというものなのだから。

私としては、

人間性の解放!の物語は、その後、「人間とは?」という定義を固めていくことにより「優生学」の思想にたどり着き、「正しい人間」以外を排除するという国民国家の差別幻想システムが完成するに至る

という下りだけではそこまでの違和感は感じなかった。なぜなら、「まおゆう」は中世から近代への移行を描いた物語だからだ。
そもそも、「普遍的」人権という概念は近代に生まれたわけではない。近代欧州に存在したのは、「市民革命」を経て「市民」、すなわちブルジョア階級が獲得した「市民権」に過ぎない。「市民権」の語源がローマ時代に遡ることからもわかるとおり、「市民権」というのは人権と違って兵役などの義務を果たした者にのみ与えられる権利であり、だからこそ「総力戦」の中で女性たちが銃後で戦争遂行に貢献することによって婦人参政権が与えられたのだ。あるいはハーバーマスが言うように「財産と教養」を持つ「市民階級」のみが得られる権利であり、だからこそ欧州では経済的な格差はなくなっていっても未だに「市民階級」と「労働者階級(=下層階級)」が意識上厳然と分かれている。ギリシャ哲学由来の「教養」を身につけ、「理性」をもって「コスモス(秩序)」の担い手たる「市民」になることを「社会」に参加する条件とし、未だ「教養」を身につけていない、「カオス(混沌)」である子供に「市民権」などなく、「大人」になるまで保護されるのみの存在とされる。そして、一生「教養」を身につけることなど叶わない「下層階級」も同様に「カオス」として蔑まれる。

Kagami氏の言う「自然権」は、確かにホッブズやロックの思想にその萌芽はあったろうがあくまで「『(キリスト教的な)神』が『人間』だと認めた者」にのみ与えられる「天賦人権」であって、その範囲が性別や皮膚の色を越えてヒト全体にまで拡張されるのは早くてもリンカーンの奴隷解放、現実的には「現代」=第二次大戦後のキング牧師の頃からといったところであろう。
だから、

「ただ助けてくれ!」などというもの「実際具体的に戦う方法を見いだせないもの」は、虫けら=奴隷なのであって、「助けてくれ」などという他者に安全保障を委ねるような行為を叫ぶ時点で、そいつはどこまで行っても救う価値すらもない虫けらなんです!

というのだけでは、そこまで目くじらを立ててはいない(むろん、それだけでも許せないという人がいるのは当然のことだが)。それが、近代における「歴史の必然」であり、仕方がないことだというのだけであれば。まして、たとえ作者がそのような意図や思想を持って書いたものであったとしても、「まおゆう」という作品そのものを非難しようというわけではない。
しかし、「アルジャーノンに花束を」に言及したうえでなお、「人間であろうとしないものは虫けらに過ぎない」と言ってしまうのはあまりにもひどすぎる。
先述したように、欧米では「教養」ある「市民」、「理性」ある「大人」だけが「人間」であり、「子供」は保護されるのみで権利の制限された存在だという、近代の「市民」社会=階級社会的な「理性」至上主義が、少なくとも当の「市民」階級の間では依然としてはびこっている。
それどころか、英国のような先進国ですら

い わゆる階級が低いとされている「労働者階級」の人たちは、「勉強をして試験を受けたら役人になれる」ということ自体を知らなかったりする、
階級が 違うと大学に行くにはどうしたらいいか、いや、大学って何なのか自体知らなかったりする

という状況から 未だ抜け出せないでいる。
「それの何が悪い、『理性』こそが自由と民主主義、平等と経済成長の基礎になるものなのだから」と言うかもしれない。ならば、「理性」を持てないように生まれついた、ある種の知的・精神・発達障害者たちは「人間」なのか、「人間」たりうるのか。「アルジャーノンに花束を」はそこを、「『人間』の範囲はどこまでなのか」をこそ問う、現代の「人権」的価値観に基づいた物語のはずだ。それを読んだ上で、「人間は人間たろうとしなければ、人間にならない」と言うのは、作中で「『理性』を持たせるための『手術』」を受ける前のチャーリィ・ゴードンは「虫けら」である、そして「手術」が未だ開発されていないこの世の「チャーリィ・ゴードン」たちは一生「大人」になれない、生まれながらに「人間」になれない者だという考え方だ。
その発想は、ヒトとして生まれた以上、たとえ「理性」を持てないように生まれついた障害者であっても生まれた瞬間から持ち、たとえ他者の権利を奪った犯罪者であっても決して奪われることがあってはならない、どれほどの『ダメ人間』であろうとも最低限が、「人間」たることが保証される現代の「人権」を、「理性」ある「善き市民」がその度合に応じて報われる近代の「市民権」に巻き戻そうとする、許されない差別思想ではないのか?

こういうことを言うと、「社会」に貢献できない者、害をなすものが「人間」あつかいされるわけがない、アナーキズムだという非難が返ってくる。だが、『社会』のために個人があるのではなく、個人にとって必要だから『社会』があるのであって、 個人はその『社会』に従う義務、適応する義務など持っていない」という思想は、ロックの「抵抗権」からも導かれる、「自然権」のひとつではないのか?
本当に「丘の向こう」、女も男も、黒いのも白いのも、赤ん坊も老人も、障害者も犯罪者も、同性愛者も幼児性愛者も同じ人間として扱われる世界を必要としているのは、「チャーリィ・ゴードン」たちなのに。

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コメント

ロックよりホッブズの方がいいと思いますよ。ロックは冷たいですよ。その辺り。

ホッブズは自然権を一般の人が思う無政府状態の様に考えていました。
ですから、自然法を非常に乱暴な物として捕らえていましたし、リヴァイアサンと言う言い方で政府を好意的に表現しています。
しかし、彼は決して政府に従属せよとは言っていません。同時に政府に自然権を実現するように求めます。

これに対し、ロックの自然権は妄想的です。そして、現実に照らし合わせて考えると、決して暖かい物でもありません。
その本質は強く自己責任的な上に、なぜか所有に対して「他の人の為に同じ様に良い物が十分にある限り」と言いながら、
土地の所有を例に挙げています。
その上で、他人の生存・自由・財産を奪う事を禁止しています。
要は、「貧乏で金がなければ恵んでくれる奴が居なければ死ね。盗みは悪だ。飢え死ね。土地がないから農業が出来ない?なら奴隷として雇ってやろう。」
「教育を受けれない?知った事か。労働を掠め取るな。」です。

一応、そうでない解釈もハーバード白熱教室で語られていましたが、
それは自然権としてではなく、あくまで社会契約論としての話です。

そんな自然権を訴えた人物を偉大だと讃えるなんて、私には無理ですよ。

投稿: 猫 | 2010/07/12 20:37

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前回の続き。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100521/p1などにみられる、「人間性」を「理性」にのみ見いだし「理性」なき者は人間ではないというあまりにも主知主義すぎる考え方を、Kagami氏は「まおゆう」はそういうRPGの良きところが全部、「自己責任論ネオリベ経済学」を語るために利用されるだけの道具に貶められていて、僕は、この話には乗 れないなあと思いましたね…。強烈にネオリベラル経済学をプッシュする物語なので、ネオリベが大歓喜しているのも、いや... [続きを読む]

受信: 2010/05/29 12:25

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