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2010/05/29

「留保のない生の肯定」の前に、「留保のない『人間』の肯定」を(続き)

前回の続き。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100521/p1などにみられる、「人間性」を「理性」にのみ見いだし「理性」なき者は人間ではないというあまりにも主知主義すぎる考え方を、Kagami氏は

「まおゆう」はそういうRPGの良きところが全部、「自己責任論ネオリベ経済学」を語るために利用されるだけの道具に貶められていて、僕は、この話には乗れないなあと思いましたね…。強烈にネオリベラル経済学をプッシュする物語なので、ネオリベが大歓喜しているのも、いやになっちゃうなあと…。下記とかネ オリベの人が如何にこの物語を支持しているか分かりやすいですね。
困っている人を冷酷に見捨てることを経済学を持ち出してひたすら正当化する理屈の羅列で、心底うんざりするとしか…。まおゆうはひたすら上記のような話、人々の冷酷な振る舞いをトンデモ経済学で正当化することで慰撫する話の連続なので、上記のような理屈に魅力を感じない僕のような人々は読む必要はないと思 います。トンデモネオリベ経済論を使って、ひたすら社会的ダーウィニズムの有用性を述べ立てている物語と言っても差し支えありません。
まおゆうやまおゆうシンパと、ヒトラーやナチスシンパの言っていることは、大体において、そっくりそのまま(選民思想・優生学思想・社会的ダーウィニズム・普遍的人権に対する嫌悪、弱肉強食肯定etc)なのが、なんとも…。まおゆう好きが「我が闘争」を読んだら大喜びするであろうことを思うと、がっくりきますね…。

と、ネオリベ的社会ダーウィニズムであると批判している。だが、「理性」ある「大人」だけが「人間」であり、「理性」を持つことが叶わない障害者は一生「子供」と同じで保護されるのみの存在であるという考え方は、何もネオリベやネトウヨだけのものではない。

http://kogemayo.air-nifty.com/kogemayo/2009/06/post-82c1.htmlhttp://kogemayo.air-nifty.com/kogemayo/2010/03/20-0282.htmlから続く、表現規制がらみの話だが、私は一貫して法規制にも「自主規制」にも反対している。なぜなら、どのような性的嗜好を持って生まれついた者であっても、少なくとも他者を直接傷つけない限りにおいては、表現の自由、及び表現を消費する自由が他の嗜好を持った者と平等に認められなければならないと考えているからだ。たとえ現実の行為に及んでしまえば犯罪となるような嗜好であっても、それでしか性的満足を得られないように生まれついたこと自体は「自己責任」ではないのだから、他の嗜好を持った者と同様に、表現する自由、及び表現を享受する自由は認められるのが当然だからだ。
それなのに、特定の性的嗜好を満たす表現の存在自体が「差別」である、許せない「他者危害」であるというのは、その性的嗜好を持って生まれついたこと自体が「罪」であり、その嗜好を持ってしまった者の存在自体が排除されるべき「悪」であるという発想であり、「他者危害」を止める術を持たないある種の知的・精神・発達障害者は排除されるしかない、「社会」に負担をかける障害者は「処分」されるべきという優生学的なものにつながる、とても危険な考え方だ。ある人の個性が「障害」になるのは、どこまでも社会の都合であり、社会の側がそれを手当てするのは当たり前なのに。

だが、特に「法規制を避けるためにこそ『自重』『自律』を」という、一見「良識的左派」に見える意見こそ、実は『自重』『自律』を表現の自由、表現を享受する自由の条件にしているものである。その最たるものがこういう意見だ。

特定の問題に対して法規制に反対するのであれば、そこに付随する他者危害の問題へのコミットを求められるのは道理です。
法規制に対して、古典的リベラリズムの立場から表現の自由をもって反対していながら、差別問題などの他者危害に対して道徳の問題とする。特定の問題への法 規制に反対しておいて、そこに付随して法規制からこぼれる他者危害へのコミットメントが求められることを否定する。
これは好意的に解釈しても単なるポジショントーク、厳しくみると自由主義へのフリーライドといえましょう。

現代の普遍的「人権」の考え方を否定し、近代の「古典的リベラリズム」の立場から表現の自由を万人が無条件に持つ「人権」ではなく、単に「権力を批判する自由」、『自重』『自律』する能力を持つ「市民」のみが持つ特権に矮小化している。

自由と責任は、「他者」の存在によって連結されます。ここを切り離すことは他者の存在を否認することです。
自由と責任を独立させる必要があるのは、対国家における「表現の自由」となります。対国家「表現の自由」については、自由と責任をひもつける理屈に断固反対します。

これこそが、「社会的動物」たることを「『人間』の条件」とし、「他者認知能力」を持たずに生まれついた、アスペルガーや自閉症などある種の発達障害者は「責任」をとる能力がないので表現の自由は行使させられない、「健常者」と同等の「人権」は持たせられないという「障害者差別」につながりかねない、危険な議論だ。

前エントリのブコメ

公共圏の参加の問題も、じゃあ成年被後見人はどうなんだとか、マイノリティとしてみた時の盲聾者はどうなんだとか、強い批判を受ける。ゆえに、「にんげんになる」問題はむちゃくちゃに難しい。

というものがあったが、そもそも「大人」しか参加できない「公共圏」などよくてせいぜいパターナリズム、いやエリーティズムでしかない、「社会のために働く意思と義務のある者だけに公民権を」というものに過ぎない。それは、ヒトとして生まれた時点で持ち、たとえ他者の権利を奪う者、他者の権利を守る能力を持たない者であっても決して奪われることがあってはならない、何の義務も責任も負うこともなく万人がフリーライドできる「人権」の敵でしかない。

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コメント

チミの理屈では幼児性愛者や強姦嗜好はどうするんだね?
彼らの性嗜好も別に彼らのせいではないのだが。
自分の性的嗜好は守りつつ、彼らの性的嗜好は認めないのかな?

ま、古典的リベラリズムの立場にたとうが、何の義務も責任もない権利などは存在しないんだけどな。

チミのいっていることには無知と欺瞞しかないな。


「社会的動物」たることを「『人間』の条件」とし、「他者認知能力」を持たずに生まれついた、アスペルガーや自閉症などある種の発達障害者は「責任」をとる能力がないので表現の自由は行使させられない、「健常者」と同等の「人権」は持たせられないという「障害者差別」につながりかねない、危険な議論だ。

てめえな
以前は特定の性的嗜好の持ち主を「障害者」だとかぬかして自己正当化しようとしてただろ?
よくこんな下衆なこといえるよな。

投稿: 地下に眠るM | 2010/05/29 22:14

なにをおっしゃいますのやら。
「障害者」に生まれついたからこそ、何の義務も責任も負わずに権利を得られる。
そして、「障害者」が得られるのと同様に、「健常者」も何の義務も責任も負わずに権利に「ただのり」できる、それが現代の「人権」という概念なのですよ。

>寄生虫が鳴いてるね。無条件の権利などこの世には存在しないよ。

あなたのその考え方こそ、「寄生虫」にしかなれない、他者に「寄生」しなければ生きることができない「障害者」には生存権すら認めないという、許されない社会ダーウィニズム、優生学の発想です。
前エントリでも書いたとおり、「理性」ある「善き市民」がその度合に応じて報われる近代の「市民権」で頭が止まっていますね。

投稿: koge | 2010/05/29 22:37

あーあ、やっぱり逃げまくり(げらげら

馬鹿にもわかりやすいように番号振ってやるから感謝しろ

1)チミの理屈では幼児性愛者や強姦嗜好はどうするんだね?
  彼らの性嗜好も別に彼らのせいではないのだが。
  自分の性的嗜好は守りつつ、彼らの性的嗜好は認めないのかな?

2)古典的リベラリズムの立場にたとうが、何の義務も責任もない権利などは存在しないんだけどな。

チミは卑劣で頭の悪い虫けらなので、上記2点の論点を誤魔化すしかない。

いいかね? なぜチミは寄生虫なのか?
「何の義務も責任も負うこともなく万人がフリーライドできる「人権」」を主張しているチミは確かに寄生虫だ。
義務は能力に応じて発生するんだよ>虫けら
新生児には何の義務もないし、障害者は障害の程度に応じた義務があるというだけだ>虫けら
義務を負いたくないので障害者を自称するてめえはマジに虫けらだ。
しかも幼児性愛者や強姦嗜好の権利はシカトしやがるダブスタのウジ虫だ。

対公権力ツールとしてのジンケンは、形式的には無制限でもかまわんけどな
隣人に対しての権利に無制限なものなどありうるはずがないんだよ。
強姦する権利がないということを考えればすぐわかる。
何が他者危害で何が他者危害でないかの普遍的な線引きなどありえんのだよ。

馬鹿なだけ、卑劣なだけなら我慢もするが
てめえのような馬鹿で卑劣なウジ虫には我慢ならんな。

投稿: 地下に眠るM | 2010/05/30 04:28

あれ?以前に私が言った通り
「幼児性愛者や強姦嗜好者もある種の『障害者』として生まれついた人々」だというのは前提にしていなかったんですか?

>隣人に対しての権利に無制限なものなどありうるはずがない
>義務は能力に応じて発生する
だからそれが、「『社会』を守る者のみが『社会』から守られる」という近代の「市民権」の発想。
そこにNoをつきつけ、「『社会』のために個人があるのではなく、個人にとって必要だから『社会』があるのであって、個人はその『社会』に従う義務、適応する義務など持っていない」、「社会的動物」たることも「『人間』の条件」としてはならない、というのが現代の普遍的「人権」という考え方であり、そうでなければ能力によって生まれながらに「人間ではない」とされるヒトが発生する、「社会」に負担をかける障害者は「処分」されるべきという優生学の発想になると私は批判しているんだけどね。

投稿: koge | 2010/05/30 06:53

はい、やっぱり誤魔化して遁走(げらげら
やはり自分の権利だけが可愛くて、幼児性愛者や強姦嗜好の権利はどうでもいいんだな。
本当に卑劣な虫けらだね。

こちらの書いた事がまったく読めてない。
対公権力ツールのジンケンを隣人にふりまわす虫けら君。
チミのいっているようなジンケンはこの世のどこにもないんだけどな。


隣人に対しての権利に無制限なものなどありうるはずがない
義務は能力に応じて発生する

これは、対公権力ツールとしてのジンケンについての記述ではない。
君はジンケンというツールを理解してない。

投稿: 地下に眠るM | 2010/05/30 18:22

やっぱり頭の中が近代の「市民権」で止まってますね。
「表現の自由」を単に「権力を批判する自由」に矮小化していると言った通り、権力と言えば公権力、マクロな権力と言う発想がそもそも時代錯誤です。
むしろ現代においては、マクロな権力だけではなく会社や学校、家庭や地域社会と言ったミクロな権力、その中の「権力者」や多数派による差別や排除などが問題とされており、だからこそ単なる「対公権力ツール」なんかじゃない、普遍的「人権」が重要視されているのです。
すなわち、その「社会」への貢献度やその「社会」によって課せられている「義務」を果たす能力や、押しつけられた「責任」をとる意志の有無にかかわらず対等な「人間」として扱われる「平等権」や、その「社会」を批判したり離脱したりする「自由権」などです。
これは、身体障害者や知的・精神・発達障害者であっても、幼児性愛者や強姦嗜好者であっても、その「社会」の中でのどのようなマイノリティあるいは弱者であっても全く同様です。

投稿: koge | 2010/05/30 20:20

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