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2010/03/20

日本で十全な権利を持つ「成人」になれる年齢は20歳ではない。

衆議院・地方議員や市町村長の被選挙権は25歳、参議院議員や都道府県知事の被選挙権は30歳にならないと得られない。
選挙権の得られる年齢をを20歳から18歳に引き下げよう、それ以外にも18歳で成人とし酒・煙草等を解禁しようという動きがあるが、その前に被選挙権年齢から引き下げるほうが先じゃないだろうか。
米国みたいに高校生で市長になれるとすれば、若者の政治への無関心がちょっとはマシになるんじゃないかと思う。学生ベンチャーを起業すること同様に、「政治」という事業に在学中から飛び込んでいってこの社会について学ぶことはとても有益なことじゃないだろうか?

で、本題。表現規制がらみの話。

そもそも私は、以前にも書いたとおり、表現規制には法規制も自主規制も含めて反対だ。
その前提として、そもそも「性」は「子供」の目から隠すべきものではないし、「穢れ」などではないということがある。成人同士が合意の上で行う性行為(むろん同性愛も含む)なら、成人が飲酒や喫煙、あるいは自動車を運転している姿と比べて、「子供」の目に入ることに何の問題があるというのかを疑問に思っている(最近では成人の喫煙シーンさえも「子供」には見せられないと発売中止にさせられるみたいだが)。
「欧米では」ともいうが、そもそもキリスト教文化は性的なものに限らず「禁欲」を是としている部分があり、「子供」向けに限らずとも「娯楽」自体を一段低く見ている部分がある。そういうタブーがなく、「政治的に正し」くない暴力的あるいは性的な表現も自由にできたからこそ、日本製のコンテンツがこれだけ世界を席巻したのではないだろうか。だからこそ東京と違ってこういうことするところには頑張ってほしいのだが。その需要があるからこそ、産業として成り立つのだから。
そもそも、ヒトはだいたい10~12歳くらい、遅くとも15歳までには第二次性徴を迎え、生殖が可能な成人になる。だから彼ら彼女らが「性」に興味を持つのは自然なことだし、すくなくとも前近代社会ではその頃から結婚・出産するのは普通のことだった。だが、近現代になって社会が複雑化したにもかかわらず、それに見合って身体的に成人になるまでに精神的にも「大人」にして、「自己責任」がとれるようにするだけの教育技術を見出すことが未だできていないので、思春期という「見た目は大人、中身は子供!」な時期ができて、それがどんどん長くなっているというのが現状だと私は考えている。
本来、第二次性徴を迎えた後の「子供」に/が性に興味を持つこと、あるいは実際に性行為に及ぶことは生物学的には自然なことで、社会的な弊害が大きいとされているから規制されているに過ぎない。にもかかわらず、今回やろうとしているのは「子供」の目に入れないではすまない、「太陽の季節」も「源氏物語」も発禁にさせられてしまうようなものだ。http://yaruomatome.blog10.fc2.com/blog-entry-1422.htmlのような、戦国時代に15歳で結婚し16歳で性行為を行うような物語も、もう二度と世に出すことができなくなってしまう、少なくともそんな疑いを抱かせるほど恣意的に権力の手で表現を弾圧できるものになっているのは確かだ。
どれほど厳しい規制が導入されようとも、それがあくまで教育技術が発達して、第二次性徴を迎え身体的に成人になるのと同時期に精神的にも「大人」になれるようになるまでの暫定的なものであるということを明確にしたうえでのことなら、私としては妥協できるのだが。現実には、そんな技術は今世紀中に開発されることはないのだろうが…

もちろん、それ以下の幼児性愛者の権利も、現実に手を出さない限りは同性愛者等他のセクシャルマイノリティ同様に守られるべきだと思うが、それはまた別の話。

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コメント

こんにちは!
ブログへのコメント、ありがとう。
感動して、じーんときてしまいました。
あの頃を思い出していました。

さすが、Kくんの記事は説得力があります。
大学の頃からそうだったよね!
Kくんの話には耳を傾けたくなるし、
気づかされることがたくさんある。

あっぱれです!!

投稿: kurahashi mariko | 2010/04/21 08:20

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