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2005/08/03

「関西の凋落」は本当か?

先日、国税庁が今年度の日本全国の路線価を発表したそれによると、標準宅地の平均路線価が、ついに東京都では上昇に転じ、前年比+0.4%となったそうだ。大阪府・兵庫県でもでも下落率はついに-5%を切り-4.7%まで下げ止まったが、-5%を切ったのはこのほかには北海道・埼玉・千葉・神奈川・愛知・京都・島根・高知・福岡・佐賀・宮崎・鹿児島と都市部がほとんどであり、地方との格差の拡大には歯止めがかからないようである。中でも、万博で活気付く愛知県は-3.1%、名古屋圏に限れば-2.1%と、大阪圏との差をますます広げているようである。

かつては「大いなるイナカ」と呼ばれた名古屋ではあるが、ここ数年のトヨタをはじめとする東海圏の企業の躍進とそれに伴う名古屋の好景気によって、関西のプライドをいたく傷つけているようである。「大阪は名古屋に抜かれるのか」「いや、向こうは三重と岐阜まで波及効果がない、こっちは京都と神戸を足せばまだ勝てるはずだ」などと、弱気な声も関西中で聞こえる。しかし、それほど関西の現状は悪いのだろうか?先ほどの路線価でいえば、大阪・京都の中心部では地価は上昇に転じている。御堂筋や四条通には、アップルストアやルイ・ヴィトンのような、場合によっては東京にもないような高級ブランドショップの出店が続いている。中小企業にしても、東大阪を中心とする電子部品工業は中国への輸出に引っ張られて、少なくとも東京・大田区よりはだいぶ好調だという話を最近よく耳にする。人口50万人以下の地方都市の壊滅的な状況に比べれば、関西で不況というのは贅沢すぎる言い分にも聞こえる。だが、2002年頃から日本は景気回復局面に入ったといわれているが、関西ではそれを実感している人がほとんどいないように思える。いったいそれはなぜなのだろうか?

関西の凋落を語る人の多くが口に出すのが、昨年大問題となった関西プロ野球2球団の合併再編である。いわく、「かつては首都圏(巨人・ヤクルト・大洋・日本ハム)と関西(阪神・阪急・近鉄・南海)に同じ数だけ球団があったのに、今じゃ首都圏には5つあって関西は2球団すら支えられるかどうか危うい」という。なるほど、確かにそうだ。メジャーリーグへの選手流出やサッカーなど他のスポーツの地位向上によって、日本プロ野球自体が将来あやしいのに…ともいうが、少なくとも関西では野球人気が落ち込んでいるとは言えない。タイガースの観客動員はここ2,3年の好調で1.5倍に増えており(2001年と2004年の比較)、オリックスですら同期間の伸びは約1.3倍で、合併問題で多くのファンの信頼を失ったにもかかわらず今年も順調に観客動員数を増やしている(さすがに合併2球団を足したほどとはいかないが)。今年は特に日本プロ野球の凋落が言われているが、昨年に比べて(昨年までは概数発表だったのであてにはならないが)セリーグでは阪神・中日・広島、パリーグでは北海道日本ハム・千葉ロッテが観客数を伸ばしており、福岡ソフトバンクも高い水準で安定している。巨人・ヤクルト・横浜・西武といった首都圏の球団が伸び悩んでいるだけのようだ。これについては、「日本が本場である(世界で一番の)スポーツではない以上、Jリーグ同様地域密着型(おらが国で一番の)運営でないとやっていけない」という分析が主流のようだ。だが、そのとおりだとすると逆になぜ首都圏では(千葉ロッテを除いて)できないのだろうか。それは、日本の中で首都圏だけが「都市」になってしまったため、地元意識がない住民を(首都圏以外では完全に地域密着のみのビジネスモデルになってしまっている)プロ野球の顧客にできないから(特にこれまで地域密着よりメディアによる浸透を重視してきた巨人の凋落はよくいわれる)ではないだろうか。

先に名古屋を「大いなるイナカ」であると述べたが、そもそも名古屋は京浜・京阪神には及ばないまでも、敗戦で福岡が大陸の玄関口の座を奪われてからはずっと日本第3の都市の座を維持してきた。人口も戦前にすでに100万人を超えており、京浜・京阪神と並び「六大都市」といわれていた。にもかかわらず「大いなるイナカ」とずっと呼ばれ続けてきたということは、もし地域が都市と田舎の2つに分けられるとしたら、その境目は日本では京阪神と名古屋の間にあったということなのだろう。実際に、戦前までは関西は十分「みやこ」であった。平安1200年の旧都京都はもちろんのこと、大阪にも難波京、神戸にも福原京がおかれたことがある。経済的にも工業は阪神工業地帯のほうがさかんで、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれていたこともある。大阪市とかつての東京市による、周辺町村の合併による人口合戦も激しかった。また、マスコミも朝日・毎日の本拠はもともと大阪であり、西日本はもとより朝鮮・満州まで大阪で印刷した新聞が届けられていた。では、少なくとも戦中まではほぼ同格だった首都圏と関西の間に差がついたのはいつごろからなのだろうか。それは、高度成長期の末期、1970年代頃からではないかと考える。この頃、成田空港の開港により、それまで大阪や札幌で乗り継ぐ必要のあった北海道東北部や西日本からの航空路線が、相当数羽田への直行便化された。これに伴い、国鉄の競争力は大きく失われ、新幹線の延伸もあったにもかかわらず東京から関西の向こうへ鉄道で向かう人は大きく減少した。また、関西を拠点としていた企業が東京に本社機能を少しずつ動かし始めたのもこのころだろう。高度成長、そしてバブルと続く好景気の中ではこの動きは見えなかったが、いつのまにか関西は一地方中核都市に成り下がっていたのである。バブル崩壊、そして大震災はこれに追い討ちをかけたに過ぎない。

「関西の凋落」、とは、かつての「日本の二大都市圏」から名古屋と同レベルの一地方都市に成り下がってしまったことを認めたくない人の言葉であろう。むしろ、これからはそれを認めることで、首都圏との差別化を図るべきなのかもしれない。

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