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2005/07/27

地域社会をマーケティングする

近年、自治体も「都市経営」上、マーケティングの考え方を持つべきだという議論が広がっている。京都市でもこの考え方を取り入れ、企業・学校の誘致、あるいは観光客の増加による地域の活性化という点では一定の成果を上げているようだ。しかし、まちづくりの分野においては、マーケティングの考え方はほとんど導入されておらず、あってもせいぜい商業施設の誘致程度にしか利用されていない。まして、京都市民やその予備軍に対しては、「住環境のよさ」「教育・福祉の充実」といった総花的なスローガンを繰り返すばかりで、たとえ個別政策としての満足度は高くとも少なくともマーケティングとしては一貫したものはないといっても過言ではない。働く場、学ぶ場、そして観光地としていくら優れていようとも、住む場としての京都市がこんなことでは、これからますます激化する地域間競争に勝ち抜いていけるのだろうか。私は、これからの自治体や地域社会にとっては、そこに住む住民、そしてそこに住んでほしい新規転入者を対象としたターゲット・マーケティングが必要ではないかと考える。以下、京都市におけるその具体的な方策について論ずる。

現代はすべての人を相手にしたマス・マーケティングが通用しなくなった時代であり、これからはターゲット・マーケティングの時代だといわれている。ターゲット・マーケティングにおいて一番重要なことは、ターゲットとする顧客を見定めることであるが、その次に重要なことが二つある。ひとつは、そのターゲットとする顧客に最適な方法でアプローチし、その商品・サービスを利用することでその顧客にどれだけのメリットがあるかを伝えることと、もうひとつはターゲットとしない人々に対して、その商品・サービスを購入してもあなたの(そして提供者側にも)得にはならないということを伝えること(かつ、供給者側が予期していなかった顧客のその商品の利用法を見極め、新たなターゲットとすること)である。多くの日本企業ではこれができておらず、本来その商品がターゲットとしてない人に漫然と(あるいはノルマに追われて)販売し、売りっぱなしになって顧客の満足度を下げているケースが多い。

特にパソコンや家電製品などの業界で見られることだが、本来ある程度の知識や経験が必要な中・上級者向けの製品が、マーケティングの失敗から初心者に売れてしまうというのがその典型である。これがあとから大きなトラブルに発展することもあり、仮にアフターサポートでなんとか使えるようになったとしても、それが必ずしもいい評判を生むわけではない。むしろ、使いこなすまでにこんなにかかったという悪評が口コミやインターネット等で広まってしまい、購入の取りやめにつながる可能性のほうが高く、その中には本来その製品がターゲットとしていた顧客もいるかもしれず、売り手にとって大きな損失につながっている。

ところで、今、無秩序なマンションの建設が都市部の地域社会で問題になっている。なぜマンションが地域社会で嫌われるのかといえば、特に京都では景観や日照権・ビル風、あるいは学校など公共施設の整備が追いつかないことなどもあるが、やはり地域社会の側から見て一番大きいのは、マンションの住人が地域社会に参加しようとしないという点であろう。迷惑駐車やゴミ出しなどのマナー問題も、その延長線上にある。

地域社会というコミュニティは、清掃・治安や災害対策、あるいはお祭りなどどうしてもある程度強制参加にならざるをえない。しかし、近年ブームとなっている大型マンションの入居者は、プライバシーや治安だけを重視し、収入や階層などがほぼ同一であるはずのそのマンション内ですらコミュニティに入ろうとしない人々ばかりだと見られている。実際に、マンションの開発・管理会社側でもそのようなニーズに合わせ、住人たちのコミュニティがなくても運営できるような強固な管理体制を強いていることが多い。また、それに対し地域社会側では建設計画が持ち上がった段階から開発・管理会社あるいは入居者と交渉し地域社会への参加を約束させたケースや、NPOと協力し交流施設や介護・福祉施設を併設した、地域の核となる形に計画を変更させたケースも、京都を始め各地であるようだが、数は少なくまたひとつのマンションで成功したからといってその隣のマンションでも同じようにいくとは限らない。また、地域住民の中にも心情的にマンションの入居者側に近い人がいることもあり、それが結果としてより深刻な地域社会の弱体化を招くこともある。

このような問題が起こる原因は、旧来からの住民の、地域社会に参加するのが当然でありまたそれは参加者の誰にとっても望ましいことであるという価値観が、それと正反対の地域社会への参加が面倒でなんとしても避けたいことであるという価値観とぶつかって起こる『文化摩擦』である。ひとつのコミュニティに、そのコミュニティがどうあるべきかという部分で価値観が正反対の人間が共存するのだから、問題が起こらないはずがないのであり、古くからの住民の考え方が統一されているのならまだしも、もともと違いがあったのであればそれがマンション問題を機に噴出し、たとえ建設を阻止できたとしてもそれ以上の亀裂を地域社会に引き起こすという悲劇を生んでしまうこともあるようだ。

だが、マンションの入居者、あるいは「若者」にしても、必ずしもコミュニティへの参加を拒む人々ばかりではない。千葉・幕張には、まったくの新興住宅地で、入居者もほとんどが核家族のサラリーマンでありながら、地域内情報ネットワークなどを通じて活発な地域活動を行っているニュータウンが存在する。また、「若者」の間でも高円寺や下北沢など、地域コミュニティへの関与の余地が多い町の人気が高まっている。彼らはそれらの町で、フリマなどを通じてさまざまな年齢、職業、価値観、生き方の人間と交わり、農村ともかつての都市とも違った形のコミュニティを作っている。彼らのような、コミュニティへの参加を求める若者は多数派ではないが、その数は増え続けており、決して無視できるような存在ではない。

このような若者が住みたくなるまち、彼らにとって東京よりもニューヨークよりもパリよりも魅力的なまち、それこそが京都の目指す道ではないだろうか。では、京都という地域社会は、そのためにどのようなまちをつくっていくべきなのだろうか。それは、『濃厚な地域コミュニティ』を売り物にしたまちではないだろうか、そう私は考える。京都人といえば、「ぶぶづけ伝説」などで知られるようになかなか本音を出さず、よそ者に対して閉鎖的で「いけず」だといわれているが、逆にその中に入ってしまい中の空気に染まってしまえば、少なくともコミュニティへの参加に喜びを見いだす人間にとってはある種の楽園であろう。まして、京都は明治期に同志社や京大・三高ができていらい、「学生にやさしいまち」でもある。先に述べたような京都人気質があるせいか、大学・学生と地域社会の交流はこれまではあまりされてこなかったが、近年は(学生より大学・教員中心とはいえ)各種施策によってこれも改善されてきているようだ。もちろん、京都に住み着いてほしいのは学生や若者だけではない。「京都らしい」地域社会に参加したい人間であれば、年齢や職業、国籍も問わない。無論そこで誰でも受け入れてしまうことは、ある種の「京都らしさ」をなくすことにもつながりかねないのだが、逆にそれが真に京都らしい、『濃厚な地域コミュニティ』をつくりだすのではないかと考えている。

このような、『濃厚な地域コミュニティ』が売りになるまちとは、具体的には次のようなまちだと考えている。毎週のように町内行事やお祭りがあり、職住近接で商店街の活気がある。VFSH0152 そこで売っているものは「スローフード」が多く、生産者の顔が見える、すなわち誰が関与したのかがわかる「京都らしい」商品だ。商店街の中には学生やフリーター、あるいは定年退職者が起業した店がある。高齢者の家に下宿している学生や、外国人旅行者も多い。地域住民やNPOによる託児所や介護・福祉施設もあり、さまざまな層の住民の交流が盛んである。コミュニティの眼があるので監視カメラ等は必要なく、子供たちは町中を走り回って遊び、学ぶ。LRTなどの公共交通も利用しやすく、老若男女誰にでもやさしいまちになるだろう。地域社会の、子育て・老人介護などの福祉は自分たちで担うので、金銭的には低負担高福祉が実現できる。もちろんその分は地域社会への参加という労力で支払うのだが、それを負担に感じるような人はこのまちがターゲットとしている住民ではないので、そもそもこのまちに住もうとはしないだろう。

もちろん、それとは逆にコミュニティに参加したくない人々をターゲットとしたまちづくりも考えられる。そこでは、地域社会への参加が強制されず、誰もがプライバシーを守られ、仕事やお受験やインターネット等を通した趣味などのコミュニティに思いっきり時間が使える。商業的にはセルフサービスの大型スーパーや量販店、コンビニエンスストアやファーストフード店があり、24時間営業している便利さを追求したまちになる。駐車場も1戸当たり23台分は確保されており、迷惑駐車など気にする必要はない。監視カメラも充実しており治安もよく(場合によっては外部との境界に門を作り、よそ者の侵入を阻止するアメリカの『ゲーティッド・コミュニティ』のような形も考えていいだろう)、民間の託児所や私立学校が高いサービスを提供しており、公教育も質が高く子育てがしやすい。マンションの管理費や各種サービスの料金を含めた「税金」は高いが、労力や時間を使うことなく高いサービスが受けられるのでターゲットとする住民にとっては満足度が非常に高いまちになるだろう。

京都市で言えば、前者の典型は洛中の、古くからの地域社会が残る地域(山鉾町など)であり、また後者は洛西ニュータウンや、南部の高度集積地区のような、古くからの地域社会がない地域でなら成立しうる。この二つの分け方は一例であり、他にも高齢者福祉に特化したまちや、幼児・小学生・中高生など子供の年齢別の教育・福祉に特化するなど、やり方はさまざま考えられる。が、どれも現在その地域に住んでいる住民の考え方をベースとし、同じような価値観の人に来てもらいたいという考え方でマーケティングすることになるだろう。

このような住民をターゲットを対象としたまちづくりを各区、(あるいは欧米で言う『街区』)、または町内会や学区単位で行い、かつそれぞれのまちが自分たちのまちはこういうまちで、こんな人に新しく来てほしいと日本中、世界中に情報を発信していけば、それぞれのまちの人気はそれぞれのターゲットとする住民によって上がり、従来からの住民も新しい住民も誰もが満足するまちができる、それによって住む場としてだけではなく、観光地として、あるいは働く場・学ぶ場としての京都もより魅力的になるのではないだろうか。そう私は考えている。

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